「……ここ、は…」 目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。 ゆっくりと上半身を起こす。 どうやらベッドに寝かされていたらしい。 部屋にあるのは必要最低限の家具と――― 「…葉?」 「ん…――む、あ…? おう、」 壁にもたれて眠りこけていた葉が、欠伸をしながら目を覚ました。 「ここ…」 「此処はホテル。今日の寝床だ」 葉はの寝ているベッドに近付いた。 「わたし…」 ―――思い出した。 リゼルグを助けたくて……庇おうとして。 でも逆にリゼルグがわたしを庇ってくれて。 「リゼルグはっ…」 「痣とか打ち身が酷いけど、大事には至らなかったみてえだ。簡単な治療だけで終わったぞ、もちろんお前もな」 と、の頬を指差して言う。 思わずがその頬に手をやると――成る程確かにガーゼの感触。 まったく無茶すんなよなあ、と葉が苦笑した。 「にしても、悪いことしたなあ蓮には」 「え…?」 「いやな、さっきまでずっとこの部屋にいたんよ。でもついさっき、ちょっと買い物頼んじまってな」 ホラ、これからまた野宿とかして、食糧とか必要なもんが出てくるだろ? そう申し訳なさそうに頬を掻く葉の声を、ぼんやりと聞く。 蓮がずっとここにいた? ……蓮、が。 『あとで――話したいことがある』 ふと耳に甦ってきた彼の言葉。 そうだ… 蓮は確かにそう言っていた。 話をしたいと。話を―― (……わたし、も) きゅっと胸の辺りで両手を握り締める。 そう、此方も蓮に話さなければならないことがあるのだ。 ―――謝りたい。 「ねえ、葉…」 「ん? 蓮ならもうすぐ戻って来ると思うぞ」 「うん……わたしちょっと屋上にいってくる」 「おう」 屋上から見ていれば――蓮が帰ってきた時、すぐにわかると思ったから。 そう思ってベッドから降り、ぱたぱたと部屋を出て行くを、葉が風邪引くなよーと見送った。 びゅう、と冷たい風が襲う。 その予想以上の冷たさに、思わずは首を竦めた。 ホテルの屋上。 と言っても、それほど高価な所ではないだろうから、そこまで高層というわけではない。 ―――日本で蓮と一緒にいたあのホテルと、全然ちがう。 は入り口が良く見えるところまで進むと、手すりにもたれた。 金属のそれは予想通り、ひやりと冷たい。 吐いた息が心持ち白く映るのは、気のせいではない。 今頃日本も冬の真っ只中だろう。 「……なつかしい、な」 何だかもう、とてつもなく昔のことに思えてくる。 蓮と出逢って、日本で暮らしたこと。 まだほんの少ししか経っていない筈なのに。 まだ出逢って間もない時、自分の不用意な一言に蓮が怒って――ホテルを追い出されて。 それでも何故か離れる気になれなくて、屋上にぼんやりと留まっていた。 あの時、どうして―― どうしてホテルを離れる気になれなかったんだろう。 (…でも、離れていたらきっと) 今みたいにたくさんの人と知り合うこともなかっただろう。 今みたいにみんなとアメリカに来ることも。 蓮と一緒にいたからこそ……今のこの世界はある。 彼はわたしに、世界を広げてくれた。 「蓮…」 早く会いたい。 そう思いながら、湿った息をかじかんだ指に吐きかける。 そういえば、追い出されたわたしの元へ蓮が来たのは――どうしてだったっけ? 『歌が、聞こえた、から――』 そうだ。 確かに彼はそう言っていた。 気まずそうに、視線を逸らしながら。 なら―― (今歌をうたったら……会える、かな?) それは単純な、ただのまじないのようなもの。 信じる根拠など何処にもない。 でも。 (それでも、いいから) は緩やかに目を閉じた。 祈りを、紡ぐ。 「―――こんばんは」 不意に背後から声がして、は振り返った。 そこにいつのまにか佇んでいたのは、 「リゼルグ…?」 名前を呼ぶと、緑髪の少年はにこりと笑った。 「寒くない?」 「う、うん…だいじょうぶ」 「そっか」 そういうと、リゼルグはの隣に並んで、同じように手すりにもたれた。 「歌が聞こえたんだ」 言いながら、昼間とは別人のように穏やかな瞳を、に向ける。 「すごくすごく―――綺麗な歌」 そしてまた――ふわりと笑う。 年相応の、優しい笑顔。 まるで天使様のように綺麗な声だったから、見に来たんだ――と、リゼルグは続けて言った。 「てんし…?」 「うん。知らない?」 「ん…」 がそう頷くと、リゼルグは「天使って言うのはね、誰にも汚されない、気高い存在のことだよ」と教えてくれた。 「へぇ…」 と思わず感心していると、リゼルグがくすっと笑った。 その笑顔がどこか嬉しそうなのを、は気付かない。 「ね、」 「なに?」 「これ、あげる」 そう言って渡されたのは、大きな紙コップ。 受け取ってみると、仄かに暖かい。 「…?」 「あったまるよ」 リゼルグが、もう一つ持っていたコップを口に運ぶ。 恐る恐るも渡されたそれを口に運んでみると―― 「っ…にが」 「コーヒーだよ。知らない?」 「う、うん…」 蓋を外して中を覗いてみると、茶色い液体が見えた。 思わず咳き込んだのは熱いこともあったが…何より苦かった。 初めて飲む味だ。 「日本にもあると思うけど」 「日本では…中華ばっかり食べてたから。蓮が…好きだったから」 「蓮くん?」 リゼルグが驚いたように首を傾げた。 「蓮くんと住んでたの?」 「うん」 「って、蓮くんと兄弟か何かだったの?」 「ううん、ちがう…ええと」 「どうして一緒に住んでたの?」 どう説明したらいいんだろう。 どこから説明すればいいんだろう。 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、はあたふたと考える。 そんなの様子にハッと気付いたリゼルグが、小さく「…ゴメン」と呟いた。 「…こんな立て続けに質問したら、答えられないよね」 ごめん、ともう一度申し訳なさそうに言う姿に、は慌ててぶんぶんと首を振った。 リゼルグはふうとため息をつくと、目前に広がる夜景に目を向ける。 憂うような横顔。 夜の街に色とりどりのネオンがちかちかと瞬いている。 そのまま、彼はどこか遠い目をしてぽつりと言った。 「知りたいって思うとね…焦っちゃうんだ。僕の悪い癖」 「知りたい…、って、なにを?」 するとリゼルグが此方を振り返った。 覗き込むように、真っ直ぐな双眸で。 それはひどく純粋な。 柔らかな笑顔。 「きみのこと」 (……!) あれ… なんだろう。 胸がざわざわする。 何だか――彼の視線に居心地が悪くなってしまった。 どうして? 不意に頬に手が添えられる。 夜風で冷えている筈なのにどこか温かい。 驚いたは固まったまま、リゼルグを見上げた。 「ずっと言いたかったんだ、君に……ありがとうって」 「ど、うして…?」 「昼間、助けてくれたじゃない」 「――でも、あれ、は…」 あんなの―――助けたうちに入らない。 むしろそのあとの、リゼルグのほうが、ずっと。 「…ごめんなさい」 「どうして謝るの?」 「だって…」 彼の視線に耐え切れなくて、は目を落とした。 拳をぎゅっと握り締める。 湧き上がるのは、悔しさと申し訳なさ。 そのまま沈黙してしまったに、リゼルグがまたくすっと笑った。 「いいんだ。君を守れたから」 「っそんなの」 「あれは僕が原因なんだから。そんなことで関係のない君を傷つけてしまう方が、ずっと嫌だ。…それに」 …? 不思議そうに見上げるの目を、リゼルグが優しく見つめ返した。 「―――嬉しかった」 「え…?」 その言葉に、思わずは目を見開く。 だって、だって 「君がほっとけないって、言ってくれた。それが凄く…嬉しかったんだ」 噛み締めるように言いながら彼は、照れたように目を細める。 その様子を、はただぽかんと見上げていた。 何も言えずに。 「ねえ」 「……な、に?」 「昼間言ってたよね。僕が誰かによく似てるって」 「う、うん」 どきん、と心臓が跳ねた。 (蓮…) あいたい。 はやくあいたいよ。 想いが募る。 そんなの内心を知ってか知らずか、リゼルグは続けた。 「その誰かって……の何?」 「え…」 「大切なひと、って言ってたよね?」 「―…――」 問いかける双眸は果てしなく真剣で。 その声音も、水を打ったように静かで、真摯な。 (たいせつなひと) 「うん…」 はこくんと頷いた。 すると、「そっか」とまたリゼルグがふわりと微笑んだ。 「じゃあ僕も負けていられないな」 「え?」 「何でもないよ」 頬にあった掌が、くしゃくしゃとの頭を撫でる。 彼の真意を尋ねるタイミングを失ってしまった。 (どうしてみんな、頭なでるんだろう…) ふと感じた疑問を浮かべながら、はただリゼルグをぼんやりと眺めた。 湯気のたつカップよりも、何よりも。 リゼルグの体温の方が、ずっと高く感じた。 「――さてと。僕はもうそろそろ部屋に戻るけど、君はどうする?」 「まだ、いい。ここにいる」 「わかった。あ、そのコーヒーはあげるよ。身体冷やさないようにね」 「うん……ありがとう」 の言葉に、リゼルグはまた笑って手を振った。 こうやって見ると、どこか彼は吹っ切れたような感じがする。 屋上の扉を開ける彼に、も手を振った。 「おやすみなさい、リゼルグ」 「おやすみ、」 緑色の少年が扉の向こうに消えたのを、見届けて。 再びは、手すりの向こうに視線を戻した。 白い息が立ち昇る。 でも――指はもう冷たくない。 ちびりとコーヒーを口に含んだ。 「……にが」 でも… どうしてだろう。 さっきよりは、飲める気がした。 味は変わらないはずなのに。 熱い液体が喉を通っていく。 ああ…あたたかい。 “大切なひと” (そうだよ―――…) 彼はわたしの、たいせつなひと。 早く帰ってこないかな はやく……謝りたいんだ。 「――――そんなところで何やってるの?」 屋上から続く階段を下りていきながら―― リゼルグはそう苦笑しながら言うと、ぴたりとある場所で足を止めた。 振り返らずに、背後の存在に告げる。 「蓮くん」 「………」 名を呼ばれて、暗がりから蓮が姿を現す。 この上なく仏頂面で。 「別に…」 口調はつっけんどんだったが、目線は気まずげに明後日の方を向いていた。 「そんな所にいないで、君も来ればよかったのに」 「…行けるか」 あんな、雰囲気の場所になんて。 不機嫌そうに呟く蓮に、リゼルグはくすっと笑った。 「昼間はありがとう」 「………」 蓮は答えない。 じっと黙り込んだまま、宙を睨んでいる。 「じゃあ僕は寝るね。早くの所に行ってあげて、風邪引いちゃうから。おやすみ蓮くん」 「――おい」 蓮が不意に呼び止める。 部屋に戻ろうとした足を止め、リゼルグはゆっくりと振り返った。 そこには蓮が―――打って変わって、困惑顔で立っていた。 何故彼を呼び止めてしまったのか、自分でもわからないというように。 「…いや、すまん、何でもな――」 しかしその声にかぶせるように、リゼルグが口を開いた。 「大丈夫。彼女にとっては君がまだ一番だよ。…今のところは」 「何…?」 それはどういう意味だ、と尋ねようとするが、それより早くリゼルグは足早に立ち去ってしまった。 残された蓮は、しばらく呆然と彼が去った方を見つめて。 ――ひゅう ふと階段に吹き込んできた風に、我に返る。 そうだ…早くのところへ行かなければ。 こんなところでぼうっとしている場合ではなかった。 行って、話すのだ。 彼女の心と、自分の心を―――見極めるため。 ひとつ、深呼吸をして。 蓮は屋上へ一歩一歩、階段を上っていった。 |